NHK大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』第25回「灰の雨降る日本橋」は、見どころ満載でしたね!蔦重とていの祝言も素敵でしたが、私がとくに心を揺さぶられたのは、花魁・誰袖と田沼意知の“言葉にならない恋”のやりとりでした。
「わっちの色でありんす!」と感情を爆発させた誰袖の叫び。
そして、扇に書かれた「袖に寄する恋」という一句。
和歌と狂歌で想いを交わすふたりのシーンは、ただの恋物語ではなく、時代に翻弄される女性の強さと儚さが滲み出ていて…胸がいっぱいになりました。
この記事では、そんな誰袖の葛藤や意知との関係、和歌に託された“死”の暗示までを、視聴者の目線でじっくりと振り返ってみたいと思います。
はじめに
江戸のメディア王・蔦屋重三郎とは?
江戸時代の出版業界をけん引した“蔦重”こと蔦屋重三郎(つたや じゅうざぶろう)は、今で言えば敏腕プロデューサーや編集者のような存在でした。浮世絵師・喜多川歌麿や葛飾北斎、戯作者の山東京伝、滝沢馬琴といった、今では歴史の教科書に名を残すような人物たちを見出し、世に送り出した功績は計り知れません。さらに、正体が今も謎に包まれている“写楽”を世に出したことでも知られています。
そんな蔦重の波乱に満ちた人生を描くNHK大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』は、現代の視点からも多くの共感を呼ぶドラマとして話題を集めています。18世紀半ば、町人文化が花開いた江戸の街を舞台に、知恵と人脈と情熱で“江戸のメディア王”へと駆け上がった一人の男の物語が、横浜流星さんの熱演を通して、毎週私たちに届けられています。
注目集まる誰袖と意知の恋の行方
第25回「灰の雨降る日本橋」では、蔦重と元女将・ていの祝言が描かれる一方、視聴者の心を大きく動かしたのが、花魁・誰袖(たれそで)と田沼意知(たぬまおきとも)の切なくも美しい恋の描写です。
誰袖は、ただの遊女ではなく、意知に協力して幕府の密貿易を探る“間者(かんじゃ)”としても働いていました。けれども、その裏の顔の中で芽生えた真剣な恋心は、やがて彼女の心を揺さぶっていきます。「袖に寄する恋」と書かれた扇、「わっちの袖の下で死んでみなせんか」という言葉、そして和歌を通じて交わされるふたりの想い…。この恋の行方は、単なる男女のロマンスにとどまらず、歴史の流れやそれぞれの運命とも交錯していきます。
和歌に込められた暗示や、歴史的事実とドラマが交差する切ない展開も含めて、今後ますます目が離せません。
1.「灰の雨降る日本橋」で描かれた転機
蔦重とていの祝言と丸屋の再出発
物語の大きな節目として描かれたのが、蔦重とていの祝言シーンです。舞台は日本橋にある本屋・丸屋。元々はていの家業でしたが、経営難から手放すことになり、そこを蔦重が手に入れたことで、ふたりの距離が一気に縮まりました。
祝言の場面では、町人たちのざわめきや、灯籠の灯り、ささやかながらも温かみのある祝いの雰囲気が丁寧に描かれ、蔦重の新たな人生の門出が強く印象づけられます。ていは、強く芯のある女性でありながらも、蔦重の情熱や信念に惹かれていく様子がこれまでに描かれてきました。ふたりが手を取り合う姿に、視聴者からは「やっと報われた!」「ていさん幸せになって」といった声が多く上がっていました。
そして、この祝言は単なる結婚という意味にとどまらず、蔦重にとっては“出版という志”をさらに形にしていくための再出発でもあります。丸屋を拠点に、江戸の文化をさらに盛り上げようとする蔦重の背中は、時代の荒波に立ち向かう“覚悟”を感じさせるものでした。
意知と誰袖の関係に訪れた不穏な変化
一方で、その裏で静かに、しかし確実に緊張をはらみ始めたのが、意知と誰袖の関係です。誰袖は、意知からの“身請け”という言葉を信じ、密貿易調査に身を投じてきました。しかし第25回では、女郎屋の2階から意知の働く姿を見下ろす中で、別の女郎が意知に近づいたことで、感情が爆発します。
「わっちの色でありんす!」と声を荒らげた誰袖は、2階から屋根伝いに駆け下り、つかみ合いのけんかを始めるという異例の展開に。花魁という誇りと恋心のはざまで揺れる彼女の複雑な思いが、ひしひしと伝わる場面でした。
意知にとって誰袖は“協力者”であると同時に、心の支えでもありますが、その立場を明確には言葉にしてこなかったことが、誰袖の不安を募らせる原因になっていました。「このままでは、自分は利用されて終わるのではないか」。そんな揺らぎが、視聴者の共感を呼ぶ大きなポイントとなっています。
江戸を覆う灰と、それぞれの決断
物語の背景では、浅間山の大噴火による“灰の雨”が江戸にも降り注ぎ、街の風景は一変します。傘をさす人々、屋根から灰を払う男たち、そして作業の指揮をとる意知。この自然災害の描写が、登場人物それぞれの心情の変化や、転機の象徴としても機能しているのが印象的です。
この“灰”は、ただの自然現象ではなく、登場人物たちの未来への迷いや、幕府を揺るがす時代の混沌そのものを映しているようにも感じられます。蔦重は祝言を通じて人生を進めようとしており、誰袖は不安と嫉妬の中で揺れ動き、意知は理想と現実のはざまで葛藤しています。
そうしたなか、彼らはそれぞれの“決断”を下していきます。灰に覆われた江戸の空の下、それぞれがどんな未来を選ぶのか。次回以降の展開がいっそう気になる回となりました。
2.誰袖の嫉妬と不安の爆発
意知をめぐる花魁たちの争い
物語が佳境を迎えるなか、視聴者の心を強く揺さぶったのが、吉原で起きた花魁同士の壮絶な口論です。意知が灰まみれになりながら復興作業にあたる姿を見守っていた誰袖。そこへ別の女郎が彼に近づいた瞬間、誰袖の中に積もっていた想いが溢れ出しました。
「わっちの色でありんす!」という叫びは、単なるやきもちではありません。恋愛という一言では片づけられない、身請けという人生をかけた賭け、誇り、そして意知への一途な気持ちがすべて詰まっていたのです。屋根を駆け下り、女郎とつかみ合いになるという行動は、花魁という存在の常識を逸脱するものでした。それだけ、誰袖の心が限界に達していたことが伝わってきます。
視聴者からは「誰袖、切なすぎる」「花魁のプライドと恋心のはざまに泣けた」といった共感の声がSNSに溢れました。
間者としての自分と女のプライド
誰袖は単なる遊女ではなく、意知に頼まれて密貿易の調査に関わってきた間者としての一面を持っています。本来、男を虜にする側であるはずの花魁が、密かに誰かの命令を受けて動く…このギャップだけでも彼女の内面には大きな矛盾があったでしょう。
間者として情報を集めるため、意知に会い続ける日々。しかしそれはやがて、任務のためではなく、自分の心のために足を運ぶ時間に変わっていきました。けれども、意知が一度たりとも関係を持たなかったことが、逆に彼の本心を測れなくさせていたのです。
「自分は間者として必要とされているのか、それとも一人の女として大事にされているのか」。その狭間で揺れ続けた誰袖の姿には、どんな立場の人であっても共感せずにはいられません。
花魁・誰袖の心の葛藤とは?
意知の「間者としての働きがつらくなるから、関係を持たなかった」という告白は、誰袖の心を大きく揺るがします。「だったら最初から惚れさせないでほしかった」「私はただ任務を果たす道具なのか」という葛藤が、彼女の心を支配していきます。
そして、あの扇に書かれた「袖に寄する恋」という文字と、狂歌や和歌を交えた言葉のやりとりは、誰袖の胸に深く刺さります。愛なのか、同情なのか、それとも都合のいい存在なのか。意知の本音を信じたい気持ちと、信じることで傷つくかもしれない恐れ。その両方に引き裂かれるような感情は、見る者にも息苦しさを与えるほどリアルでした。
花魁という「演じること」を日常とする彼女が、素顔のまま「好いた男」に感情をぶつけるシーンには、強さと儚さの両方が宿っています。それはまるで、夜桜のような美しさと切なさでした。
3.文学と恋が交差する名シーン
「袖に寄する恋」…狂歌と和歌の恋文
第25回のクライマックスは、まるで一編の詩のような美しい場面でした。意知が誰袖の元を訪れ、1本の扇子を差し出します。そこには「袖に寄する恋」という一句が添えられていました。これこそ、2人の初対面以来の想いを結晶化させた言葉。意知はあの日、変装して“花雲助”という名で登場していましたが、そのときには何も詠まずに去っていたのです。
この一句には、当時の風雅な恋文文化が色濃く反映されています。直接「好き」とは言えない時代。だからこそ、和歌や狂歌に心を託して伝えるしかなかった。その不器用な愛の伝え方が、現代を生きる私たちにも、どこか温かく胸に響いてきます。
「西行は花の下にて死なんとか 雲助袖の下にて死にたし」
この狂歌の中に込められた想いは、単なる言葉遊びではなく、本気の愛の表明でした。和歌や狂歌に込めた「文(ふみ)」の文化が、ここで最高潮に達します。
意知の本音と誰袖の優しさ
これまで多くを語らず、誰袖との距離を保ってきた意知が、初めて自分の弱さや葛藤をさらけ出した瞬間。「間者として使っている彼女に手を出してしまったら、自分の心が揺れてしまう」という苦悩。そして、「蝦夷をめぐる使命も、自分の気持ちも、両立させられない弱い自分を許してほしい」と語る姿に、誰袖はようやく意知の真意に触れます。
それを聞いた誰袖が返したのは、「ちょいとわっちの袖の下で死んでみなせんか」という、優しさと覚悟が交差するひと言でした。これはただの冗談ではなく、意知の狂歌への返歌であり、同時に「どんなあなたでも受け止める」という花魁なりの愛の表現だったのです。
この場面の静けさと濃密さは、どんな派手な演出よりも深く心に残りました。まるで時が止まったような数分間。恋に落ちる瞬間というより、愛を確認しあう瞬間の美しさが描かれていたと言えるでしょう。
西行法師の和歌が導く“死”の暗示
「願わくば 花の下にて 春死なん その如月の 望月の頃」
これは実在した僧・西行が詠んだ有名な和歌で、「桜の花が咲く春の満月の夜に死にたい」と願う気持ちを歌ったものです。そして、この歌を口にする誰袖の笑顔の奥には、視聴者にとって不穏な影も落としました。
史実では、田沼意知は暗殺される運命にあります。それを知る視聴者にとって、「死」を含んだ和歌の引用は、甘い恋の余韻と同時に、悲しい未来への“フラグ”にも見えたのです。
また、“望月”という言葉には「満ちる」という意味もあり、満ちた月はやがて欠けていく、という無常観を連想させます。それは、ようやく心が通じ合ったふたりの関係が、長くは続かないかもしれないという、物語の行く末を予感させました。
美しい和歌と文学、恋のやりとり。そのすべてが交差したこのシーンは、「べらぼう」の中でも屈指の名場面といえるでしょう。温かさと切なさ、希望と絶望が入り混じるこの瞬間は、観る人の心に静かに沁みわたる余韻を残しました。
まとめ
第25回「灰の雨降る日本橋」は、物語の大きな節目であると同時に、登場人物たちの心の揺れを丁寧に描いた回でした。蔦重とていの祝言、灰に覆われる江戸、そして誰袖と意知の文学的で切ない恋模様。どのシーンにも、人間の弱さと強さ、そして覚悟が映し出されていました。
特に、誰袖が口にした「わっちの色でありんす」「袖の下で死んでみなせんか」などの言葉は、花魁という立場を超えて一人の女性としての愛を貫く姿勢が伝わってきました。狂歌や和歌といった“言葉”でしか想いを伝えられなかった時代の中で、互いの気持ちを探り合い、ようやく心が通じ合ったふたり。けれどその裏に漂う「死」の予感は、史実に基づいた展開の重みを思い出させます。
この回は、「べらぼう」という作品が、単なる歴史ドラマではなく、人の心の深層に迫るドラマであることを改めて実感させてくれました。恋と使命、誇りと迷い、そして言葉の力。すべてが織りなす繊細な世界を、これからも見届けていきたいと思わせる名エピソードでした。
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