長年愛されてきた駄菓子「糸引きあめ」のお話です。
細い糸を引いて、当たりが出るかドキドキ……。子どもだった私にとって、糸引きあめはただの“おやつ”ではなく、小さな冒険でした。
でもその糸が、とうとう途切れてしまったのです。2024年5月、国内唯一の製造元・耕生製菓さんが、糸引きあめの製造を終了されました。
この記事では、その背景と職人さんの想い、そしてあの甘くて切ない記憶について、ひとりの生活者として綴らせていただきます。読んでくださった方が、懐かしい記憶にふっと帰れるような、そんな時間になれば嬉しいです。
はじめに
糸引きあめとはどんなお菓子?
「糸引きあめ」は、透明なあめ玉から細い糸が何本も出ており、その糸をくじ引きのように1本選んで引くと、先にあめがついているという、昔ながらの駄菓子です。あめのサイズによって「当たり」「はずれ」があり、子どもたちは「大きいのが当たるかな?」とワクワクしながら引いていました。あめそのものもカラフルで、コーラ味やサイダー味、そして一番人気のフルーツミックス味など、見た目にも楽しく、味も本格的。口元から糸を垂らしながら、にこにこして歩く子どもたちの姿は、今でも地域の記憶として残っています。
国内唯一の製造元・耕生製菓の歴史と役割
この糸引きあめを、長年にわたって製造してきたのが愛知県豊橋市の「耕生製菓」です。戦後間もないころに創業し、最盛期には十数人の従業員とともに、地域に根ざしたお菓子作りを続けてきました。1950年代から糸引きあめの製造を本格的に始め、駄菓子屋文化とともにその名を広めました。近年は社長夫妻を含め6人での少人数体制となり、工場の老朽化や原材料の高騰といった厳しい状況の中でも、すべて手作業にこだわって製造を続けてきました。しかし2024年5月末、その歴史にひとつの幕が下りました。全国でただ一つの「糸引きあめ」メーカーとして、耕生製菓が果たしてきた役割は、単なる菓子作りにとどまらず、日本の駄菓子文化を支えた象徴のひとつと言えるでしょう。
1.糸引きあめが愛された理由
駄菓子屋文化の中での特別な存在
かつて全国各地の駄菓子屋には、糸引きあめが必ずといっていいほど置かれていました。並んだ糸の束の中から1本を選ぶという「運試し」的な要素が、ただのあめ以上の楽しさを生んでいたのです。10円玉を握りしめて店先に並ぶ子どもたち、引いた瞬間に「当たり!」と叫ぶ声、外れでもう一回チャレンジするか悩む時間――。こうしたやりとりは、ただ商品を買うだけでは得られない“体験”であり、糸引きあめは昭和〜平成初期の子ども文化の一部として、多くの記憶に残っています。
子どもたちにとっての“くじ引き”のワクワク感
糸を1本引くだけ、というシンプルな遊びなのに、なぜあんなにワクワクしたのでしょうか。それは、どれが“当たり”かは誰にも分からないからこそ、どの糸にも希望を込められるからです。まるで縁日のおみくじや福引きのような感覚。「この赤い糸が太い気がする」「端っこの糸が怪しい」と真剣に悩んで選ぶ子どもたちの姿は、どこか神聖な儀式のようでもありました。商品以上に、“当てたい”という気持ちを引き出す仕組みが、糸引きあめの最大の魅力だったのです。
フルーツ引・シャンペンサイダー・コーラ糸引の人気
耕生製菓が手がけていた糸引きあめは、フレーバーによって3種類に分かれていました。その中でもダントツの人気を誇っていたのが「フルーツ引」。箱に描かれた昭和レトロなイチゴのイラストと、あめのカラフルさが相まって、子どもだけでなく大人も懐かしさを感じる商品でした。シャンペンサイダーやコーラ糸引も根強いファンがいて、どれも一つひとつ手作業で丁寧に作られていたため、味や形に独特の個性がありました。見た目の楽しさと味の良さが揃っていたからこそ、世代を超えて愛され続けたのでしょう。
2.耕生製菓が製造終了を決断した背景
原料費・包装資材の高騰と採算の限界
糸引きあめの製造に必要な砂糖や水あめ、包装資材などの原料価格は、ここ数年で急激に上昇しました。とくに砂糖やプラスチック素材は世界的な価格変動の影響を受けやすく、以前は利益が出ていた製品も、次第に赤字に転じていきました。耕生製菓では、価格を据え置いたまま手作業で製造を続けていたため、原価に対して販売価格が見合わなくなり、採算ラインを大きく下回る状態が続いていたそうです。値上げの検討すら、駄菓子としての「安さ」を守るために踏み切れなかったことが、経営の苦しさに拍車をかけました。
工場の老朽化と社長夫妻の体調不良
製造現場となっていた工場は築70年以上。もともと戦後間もない時期に建てられた建物で、設備の更新もままならず、日々のメンテナンスだけで精一杯の状況でした。配管の不調や作業場の老朽化は、安全面でも不安材料となり、製造継続の重荷となっていました。また、製造を支えていた社長・津野耕一郎さんが体調を崩したことも大きな要因です。夫婦で二人三脚で経営を続けてきた耕生製菓にとって、どちらか一方が倒れることは、即ち会社の存続にも関わる深刻な問題だったのです。
事業承継の難しさと最後まで手作業へのこだわり
耕生製菓の製法は、ほぼすべてが手作業に頼るものでした。あめを型に流し入れる、糸を差し込む、束ねて袋詰めする……これらすべてを熟練したスタッフが手作業でこなしていたため、大規模な機械化や外部委託への移行が難しい現実がありました。実際に「継ぎたい」と申し出た外部からの引き継ぎ希望もあったそうですが、「この製法は、よそでは無理だろう」と断ったという三恵子さんの言葉には、簡単には真似できない技と誇りがにじみ出ています。効率よりも品質と伝統を守り続けたことが、結果的に次世代へのバトンを難しくしてしまったのかもしれません。
3.「糸引きあめ」が残したもの
駄菓子文化を支えた中小企業の奮闘
耕生製菓のような中小企業は、決して派手ではないけれど、地域に根ざし、文化を支える存在です。糸引きあめのような手間のかかる製品を長年にわたり作り続けることができたのは、効率や収益だけを追わず、「子どもたちの笑顔のため」「懐かしさを届けるため」といった想いがあったからこそです。工場の中で、黙々とあめに糸を通していた職人たちの姿が、その証しです。機械に頼らず、ひとつひとつの工程を丁寧にこなす姿勢は、大量生産では決して生まれない「ぬくもり」のようなものを、あめに宿していました。
製造工程に込められた職人の技と誇り
糸引きあめの製造は、驚くほど細かな工程の連続です。砂糖と水あめを溶かし、型に流し入れるタイミング、糸を差し込む手の加減、固まる前の微妙な温度の見極め……。まさに職人技が光る世界でした。束ねるときには、糸の絡まりや断線を防ぐ工夫も必要で、30本の糸を1束にする作業だけでも根気と集中力が求められます。こうした技術や経験は、マニュアル化や引き継ぎが難しく、まさに“手から手へ”受け継がれてきたもの。その技術が失われてしまうことは、日本の菓子文化の一部が失われることにもつながります。
駄菓子業界の今後と、消えゆく懐かしさへの想い
糸引きあめの終焉は、ひとつの商品の消滅にとどまらず、駄菓子文化そのものの岐路を示しています。駄菓子屋の減少、後継者不足、そして物価高といった現実が、中小菓子メーカーを苦しめています。けれど、「懐かしさ」「手に取りやすさ」「子どもの喜び」といった駄菓子の魅力は、時代が変わっても色あせることはありません。あのあめを口にくわえ、糸をたらしながら歩いた記憶を持つ人たちが、ふとしたときに耕生製菓の糸引きあめを思い出してくれる――それが、三恵子さんたちの願いでもあるのかもしれません。
まとめ
糸引きあめは、単なるお菓子ではなく、昭和・平成の子どもたちの「思い出のかけら」でした。耕生製菓が長年守り続けてきた手仕事のぬくもり、選ぶ楽しさ、そして当たった時のあの喜び——それらは、今の時代にはなかなか見つからない“体験”でした。廃業という決断は寂しいものでしたが、三恵子さんや津野社長の努力、そして全国のファンの記憶の中で、糸引きあめはこれからも語り継がれていくはずです。
時代の流れとともに、消えていくものは少なくありません。でも、そこに込められた想いや工夫をきちんと見つめることができれば、それは「終わり」ではなく、「次に何を大切にするか」を考えるきっかけになるのではないでしょうか。糸引きあめの物語は、私たちにそんなことを静かに教えてくれているようです。
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