「SUPER EIGHT」の横山裕さんが『24時間テレビ』でチャリティーマラソンに挑んだ際、涙を流したシーンが大きな反響を呼びました。
その涙の理由は、華やかな芸能活動の裏で支え続けてきた“弟たちとの絆”にありました。
両親の離婚、母の病気、そして弟たちの児童養護施設での生活——横山さんの歩んできた道のりは決して平坦ではありません。
今回は、施設に残された日誌や弟の結婚式での「お父さん代わりありがとう」の言葉まで、感動的なエピソードを交えながら横山裕さんの生い立ちと兄としての責任を振り返ります。
はじめに
横山裕が「24時間テレビ」で見せた涙の理由
2025年の「24時間テレビ」でチャリティーマラソンのランナーを務めた横山裕さん。スタート前から涙をこらえる姿が映し出され、多くの視聴者が胸を打たれました。
その背景には、華やかな芸能活動の裏で背負ってきた家族への思いや過去の経験がありました。
特に、弟たちが児童養護施設で過ごしていた頃の日誌を読み返した瞬間、横山さんの瞳からは抑えきれない涙があふれ出ました。
その場面は単なる「芸能人の感動シーン」を超え、一人の兄としての葛藤や愛情が伝わる出来事となりました。
複雑な家庭環境とチャリティーマラソンのつながり
横山さんの生い立ちは決して平坦なものではありません。
両親の離婚、母の再婚と病気、そして弟たちが施設に入ることになった経緯は、幼い頃から「守るべき存在」と向き合わざるを得ない状況を生み出しました。
中卒で建設現場に立ち、弟たちの生活を支えるため必死に働き続けた日々は、彼の人柄や価値観を形作る大きな要因となったのです。
今回「子ども支援マラソン」を走ることは、そうした自身の経験を社会に伝える手段でもあり、「支援を必要としている子どもたちに目を向けてほしい」という強い願いが込められていました。
1.横山裕の生い立ちと家族背景
両親の離婚と母の再婚、弟たちの誕生
横山裕さんは3歳のときに両親が離婚し、その後母親の再婚によって新しい家庭が始まりました。そこで6歳と8歳年下の弟が誕生します。
兄弟とは年の差がありましたが、幼いながらも「自分が兄として守らなければならない存在だ」と強く感じていたといいます。
家族の中に新しい命が増えることは喜びである一方、環境が変わることに子どもながらに戸惑いもあったはずです。
母の病気と離婚、弟たちの児童養護施設入所
しかしその後、母親ががんを患い、さらに再婚相手との離婚も重なりました。生活が不安定になる中で、まだ幼い弟たちは児童養護施設での生活を余儀なくされます。
施設での暮らしは安全が確保されている反面、家庭で育つ子どもとは違う寂しさを抱えるものです。
弟たちは保育士さんや日々の生活に支えられながらも、心のどこかで「兄と一緒にいたい」という思いを募らせていました。
その気持ちは後に日誌や先生への言葉として残され、兄の存在がどれほど大きな支えであったかを物語っています。
中卒で社会に出て、家計を支えた日々
横山さん自身も決して楽な道を歩んだわけではありません。高校へ進学する道を選ばず、中学を卒業するとすぐに建設会社に就職しました。
鉄骨を担ぎ、炎天下の工事現場で汗を流す日々。肉体的にも精神的にも厳しい環境でしたが、「家族を支えるため」という一心で働き続けました。
そのかたわら、ジャニーズJr.としての活動も並行し、仕事が終わった後にレッスンへ駆け込む生活を送っていました。
芸能界での夢を諦めず、家族への責任も果たそうとした横山さんの姿は、まさに必死で「生きるため」に走り続けた若者そのものでした。

2.兄としての責任と弟たちへの支援
工事現場とジャニーズ活動を両立した努力
建設会社で働き始めた横山さんの生活は、まさに時間との戦いでした。朝早くから夕方まで工事現場で汗を流し、その後は急いでジャニーズ事務所のレッスンに向かう日々。
現場仕事で疲れ切った体に鞭を打ちながらも、「弟たちのため」「夢を諦めたくない」という二つの思いが原動力になっていました。
過酷な両立生活は簡単なものではありませんでしたが、努力を重ねた結果、23歳で関ジャニ∞としてデビューを果たし、芸能界での道を切り開いていきました。
生活費・学費を支えた兄の覚悟
デビュー前から横山さんが最優先に考えていたのは、弟たちの生活でした。毎月の給与から生活費を工面し、学費を支払うことで「弟たちにだけは不自由をさせたくない」と強く願っていたのです。
自分自身は贅沢をせず、服も最低限、食事も簡単なもので済ませることが多かったといいます。
弟たちが施設で過ごしている間も、「兄ちゃんが頑張っている」と伝わるよう、面会時には笑顔で接し続けました。その姿勢が弟たちにとって心の支えとなり、施設での日々を乗り越える力になっていったのです。
面会や正月の団らんで繋がれた兄弟の絆
横山さんにとって、弟たちと過ごす時間は何よりの宝物でした。
年末や正月などまとまった休みができると弟たちを東京に呼び、一緒に食事をしたり買い物を楽しんだりと、普通の家族と同じような時間を大切にしていました。
施設に足を運ぶことも度々あり、面会のたびに弟たちは「兄ちゃんに会える」と喜びを隠せなかったといいます。
忙しい仕事の合間を縫ってでも弟たちと向き合い続けた横山さん。その積み重ねが、後に「父親代わり」とまで言われるほど強い絆を育んでいきました。

3.施設の日誌と結婚式での感動エピソード
弟の日記に綴られた「兄ちゃん」の存在
施設を久しぶりに訪れた横山さんは、弟たちが日々書き残していた日記や保育士の先生による記録を目にしました。そこには、芸能界で活躍する兄への思いが素直に綴られていました。
テレビに映る横山さんを見つけた弟は、小さな声で「きみ兄ちゃんや」と呟き、保育士に抱きついて喜んだこと。
その一方で、画面越しの兄を見て「もっと会いたい」という気持ちが募り、夜になると寂しさからホームシックになったこと。そんな弟たちの心の動きが丁寧に記されており、横山さんは読みながら涙が止まらなかったといいます。
兄として必死に働き続けた日々が、弟たちにとってどれほど大きな支えだったのかを改めて実感する瞬間でした。
施設での兄弟の再会とホームシックの記録
施設生活では「普通の家庭のように一緒に暮らすことができない」という現実が常につきまとっていました。
面会の時間は嬉しさに包まれるものの、別れの後にはどうしても寂しさが残ります。
日誌には、会えた喜びと同時に「兄に会いたい」という思いで眠れなくなる夜のことが書かれていました。
兄弟のつながりがどれほど強いものであったか、その記録は何年経っても色褪せることがありません。
横山さんにとっては胸を締め付けられる一方で、弟たちにとって自分が生きる希望になっていたことを知る大切な証でもありました。
弟の結婚式での「お父さん代わりありがとう」
年月が流れ、弟が結婚する日がやってきました。その式の場で弟から贈られた言葉は、「兄ちゃんありがとう」「お父さん代わりになってくれてありがとう」。その瞬間、横山さんは号泣し、これまでの苦労や支えてきた日々が報われたと感じたといいます。
父親の役割を自然と背負い、弟たちのために走り続けた時間。その積み重ねが、弟にとっては「家族の礎」となり、新しい人生の門出を迎える力になったのです。
この感動的なエピソードは、横山さん自身が歩んできた道のりの答え合わせのようでもありました。
まとめ
横山裕さんが「24時間テレビ」で見せた涙の背景には、兄として家族を支え続けた長い年月があります。
両親の離婚、母の病気と離別、弟たちの施設入所——その一つひとつの出来事に向き合いながら、中卒で現場に出て働き、同時に夢を追い続けた日々。
面会や正月の団らんを重ね、施設の日誌に残った「兄ちゃん」への想い、そして結婚式での「お父さん代わりありがとう」という言葉は、彼が歩んだ道のりの確かな証です。
今回の「子ども支援マラソン」は、同じ境遇にいる子どもたちに光を当てるきっかけであり、私たち一人ひとりが“気づき、寄り添い、行動する”ことの大切さを教えてくれます。
小さな寄付や情報のシェア、地域での見守り——できることから始めれば、誰かの明日を少し温かく変えられるはずです。
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