左手の指がない高校球児・横山温大選手 努力と工夫でつかんだ甲子園への切符

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生まれつき左手の指がないというハンディを抱えながらも、岐阜県立岐阜商業高校の外野手・横山温大選手は、努力と工夫で強豪校のレギュラーを勝ち取りました

。2025年夏の岐阜県大会では、決勝で3安打3盗塁の活躍を見せ、見事チームを甲子園へ導いた横山選手。

その挑戦の軌跡と、支え続けた家族・仲間との絆をご紹介します。

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目次

はじめに

生まれつき左手の指がない高校球児の挑戦

岐阜県立岐阜商業高校の外野手・横山温大(はると)選手は、生まれつき左手の指がないという先天性のハンディキャップを抱えながらも、強豪校でレギュラーを勝ち取り、夏の甲子園出場を決めました。

幼い頃、両親ですら「野球は難しいのでは」と思った状況から、努力と工夫で道を切り開き、今やチームの戦力として堂々とグラウンドに立っています。

その姿は、多くの人に「できないことより、できることに目を向ける大切さ」を教えてくれます。
 
義手を使い始めた小学生時代から、グローブを使い分けた中学時代、そして県岐商での鍛錬の日々まで、横山選手の歩みは常に挑戦と工夫の連続でした。

夢の舞台・甲子園に挑む横山温大選手の物語

2025年夏、岐阜県大会で打率と盗塁で存在感を示し、決勝では3打数3安打3盗塁の大活躍。見事チームを甲子園へ導きました。

「ハンディがあっても関係なくやれる」ことを証明し、同じような境遇の人々に勇気を届けたいという思いを胸に、8月10日の初戦・日大山形高校戦に挑みます。
彼の物語は、単なるスポーツの枠を超え、努力と仲間、家族の支えが生む可能性の物語です。

1.幼少期からの夢と家族の支え

野球に憧れた幼少期と兄姉の影響

横山温大選手は、岐阜県各務原市で3人きょうだいの末っ子として生まれました。兄

と姉はどちらも野球をしており、幼い温大選手は自然とバットやグローブに興味を持つようになりました。

休日には兄姉の練習や試合を見に行き、その姿に憧れて「自分も野球選手になりたい」と夢を抱くようになります。

幼稚園のころには、まだうまくボールを投げられないながらも、庭で兄とキャッチボールをするのが日課になっていました。

左手のハンディを知った家族の葛藤

生まれつき左手の指がないことを医師から告げられたとき、両親は大きな衝撃を受けました。

特に母・尚美さんは「野球をやらせたいから男の子をもう一人授かりたいと思っていたのに…」と、夢が遠のいたように感じたといいます。

しかし、幼い温大選手が「小学校に行ったら、手はみんなと同じになるんだよね?」と何度も尋ねる姿を見て、家族は「できないことを数えるのではなく、できる方法を探そう」と気持ちを切り替えました。

義手で始めた小学生時代の野球

小学3年になると、地元の少年野球チームに入団。

義手を装着しながらも、誰よりも熱心にバッティング練習に励みました。

最初はキャッチボールもぎこちなかったものの、兄との練習や父とのバッティング練習を重ねるうちに、打球はどんどん鋭くなっていきます。

母は野菜嫌いの温大選手のために、野菜を細かく刻んで煮込んだカレーを作り、体づくりを支えました。

この頃にはすでに「将来はプロ野球選手になる」という明確な目標を口にし、周囲の大人たちを驚かせていました。

2.中学時代の工夫と成長

グローブを使い分けた二刀流の挑戦

中学に進学した横山温大選手は、愛知県の強豪硬式チーム「江南ボーイズ」に所属しました。

ここで彼は、ピッチャーと外野手の二刀流に挑戦します。

投手のときは右手で投げるため、左手にグローブをはめて守備を行います。一方、外野手のときは左手ではボールをつかめないため、右手にグローブをはめてキャッチ。

その後は瞬時にグローブを外し、握り替えて右手で送球します。

この動作をスムーズに行うため、放課後や休日は何百回も繰り返し練習を重ねました。

仲間たちが打撃練習をしている横で、横山選手は一人で「キャッチから送球までの0.1秒短縮」に集中する日も珍しくありませんでした。

「逆に武器に」変えたハンディキャップ

左手の指がないことは、普通なら不利と考えられるかもしれません。しかし横山選手は「ハンディだとは思わない。逆に自分の武器だ」と言い切ります。

普通の選手とは異なるプレースタイルが相手の意表を突き、守備や走塁で優位に働くこともありました。

例えば、打球への反応が速く、右手一本で捕球しても素早く体勢を整えられるため、二塁への送球でランナーを刺したこともあります。

その姿勢は、チームメイトにも「自分ももっと工夫できる」と刺激を与えていました。

県岐商進学を目指した努力と家族の応援

中学時代、横山選手が心に決めたのは「県立岐阜商業高校でプレーする」という目標です。

名門で活躍するためには、人一倍の努力が必要でした。

平日は練習後も自宅で父と素振りを行い、休日は兄がノックを打って守備練習をサポート。母は栄養バランスを考えた食事を用意し、特に野菜嫌いを克服させるためにカレーやシチューに細かく刻んだ野菜を忍ばせました。

家族全員が一丸となって支えた結果、横山選手は持ち前の努力と工夫で力を伸ばし、ついに憧れの県岐商への進学を果たします。

3.県岐商での挑戦と甲子園への道

外野手一本への転向と右手の鍛錬

憧れの県岐商に入学した横山温大選手は、当初ピッチャーとして練習を重ねていました。

しかし、高校1年の秋に「打撃で勝負したい」という思いから外野手一本に専念する道を選びます。

ハンディを抱える自分にとって、右手はまさに生命線。ケガを防ぐためのストレッチや筋トレを日課とし、特にスイングや送球に必要な腕力を徹底的に鍛えました。

さらに、左手の押し込み動作も安定させるため、ゴムチューブや軽いダンベルを使った独自のトレーニングを取り入れ、打撃力向上につなげていきました。

握り替えの技術と監督・仲間の評価

外野手としてプレーする上で欠かせないのが、捕球後の素早い握り替えです。

横山選手は「0.何秒でも速く」を目標に、グローブを浅く握り、捕球から送球までの動作を何度も繰り返し練習しました。

試合中でもその成果は現れ、俊足ランナーを刺すプレーや、長打を防ぐ好返球で観客を沸かせます。

藤井潤作監督は「足もあり、守備範囲が広い。スイングも力強く、三拍子そろった選手」と高く評価。

キャプテンの河崎広貴さんは「人一倍努力する姿を間近で見てきた。一番尊敬できる仲間」と語り、マネージャーの岩田愛菜さんも「左手のことを忘れるくらい、勉強もスポーツも何でもできる」と称賛しました。

岐阜大会での活躍と甲子園出場決定

2025年夏の岐阜県大会、横山選手はチームの快進撃に大きく貢献します。

初戦からヒットを重ね、決勝では「帝京大可児」と対戦。第1打席では右手一本でライト前に運ぶ鋭い打球を放ち、この回の大量得点のきっかけを作りました。

さらに6回には、かつて中学時代に同じチームでプレーした川上洸晶投手からタイムリーヒットを放ち、試合を決定づけます。この日は3打数3安打1打点3盗塁と大活躍。県岐商は10対0で勝利し、甲子園行きを決めました。

試合後、横山選手は「同じようにハンディを持つ人にも“できる”と感じてもらいたい。全国制覇を目指して全力で戦う」と力強く語り、その表情にはこれまでの努力と支えてくれた家族への感謝がにじんでいました。

まとめ

横山温大選手の歩みは、単なる野球選手としての成長物語ではありません。

幼少期にハンディを抱えて生まれた現実を受け止め、家族や仲間の支えの中で工夫と努力を重ね、自らのプレースタイルを築き上げてきました。
中学時代にはグローブを使い分ける独自の守備法を磨き、高校では外野手一本に専念し、生命線となる右手を鍛え抜く日々。握り替えの技術や俊敏な守備は、監督や仲間たちからも高く評価され、県岐商の快進撃を支える大きな原動力となりました。

そして迎えた岐阜県大会決勝では、3安打3盗塁の活躍でチームを甲子園へ導き、「ハンディがあっても関係なくやれる」という信念を自らのプレーで証明しました。

夢の舞台で挑む姿は、同じような境遇の人々に勇気を与え、「諦めなければ夢は叶う」という普遍のメッセージを体現しています。

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