2025年10月24日、高市早苗首相が初の所信表明演説に臨んだ衆議院本会議。
その最中に「統一教会!」「裏金!」といった野次が飛び、テレビ中継でも音声が拾われたことが波紋を広げています。
番組『ミヤネ屋』でも橋本五郎氏が「演説の中身が分からないじゃないですか!」と苦言を呈し、SNSでは「議会の品位が失われた」「表現の自由の範囲では?」と賛否が分かれました。
1. 国会での「野次」は法的に認められているのか
まず確認しておきたいのは、国会法や衆参両院の規則上、「野次」は正式な発言ではないという点です。
- 国会法第118条では、「議員は議長の許可を得なければ発言できない」と定められています。
- したがって、他人の発言中に割り込む「野次」は不規則発言に該当し、議長の裁量で注意・戒告・退場などの対象になり得ます。
ただし、戦後の議会文化の中で、短い合いの手や「そうだ!」などの応援的発言は「議論の活性化」として黙認されてきた経緯もあります。
しかし、今回のように特定の個人や問題を強くなじる内容が公式演説中に飛んだ場合、法的には「権利の行使」ではなく「秩序の妨げ」として扱われます。
2. 「聞こえない」よりも「伝わらない」中継映像が生んだ心理的影響
今回の高市首相は、固定マイクとピンマイクを併用しており、音声そのものは明瞭に聞き取れるものでした。
しかし、放送上では議場全体の環境音も同時に収音されるため、視聴者には野次の方が強く印象づけられます。
人間の脳は、同時に複数の明瞭な言葉が入ると注意を奪われる特性があります。
つまり「首相の声が聞こえなかった」のではなく、“意味が頭に入ってこなかった”。橋本五郎氏の「中身が分からない」という批判は、この聴覚的妨害の側面を指摘したものと考えられます。
3. メディアが「野次」をどう報じ、どんな意図が働くのか
報道番組やワイドショーは、政治のリアルを「国民の目線」で伝えることを目的としています。
一方で、映像編集の過程で「印象に残る音声」「分かりやすい対立構図」を優先しがちで、結果的に“野次が主役”の報道になる傾向があります。
今回も、野次そのものの映像と橋本氏の強いコメントが繰り返し流れたことで、「国会の品位」「議員のマナー」といった論点が独り歩きしました。
報道は事実の伝達に留まらず、社会的評価の形成に影響を与える側面を持っています。
4. SNS上の反応──「怒り」「冷静」「擁護」それぞれの声
「あの野次、完全にやりすぎ。高市さんが何を話しているかより“誰が叫んだか”しか話題になってない。」
— 一般視聴者A(Xより)
「野次も議会文化の一つ。完全にゼロにするより、内容で議論できる場を作ってほしい。」
— 政治ウォッチャーB(Xより)
「首相のマイクはしっかり入ってたよ。聞こえないというより、メディアが“騒ぎ”を作ってる感じがする。」
— メディア関係者C(Xより)
SNS上では、野次自体を批判する声とともに、「メディアが煽りすぎでは」という意見も多く見られました。
情報の受け手である私たちも、映像の“編集された現実”に流されない視点を持つことが大切です。
5. 「野次議員」としてSNSにさらされるリスク
野次を飛ばしたとされる議員の名前が確定していない段階でも、SNS上では特定の議員名が拡散される事態が起きています。
こうした状況は名誉毀損やデマ拡散のリスクを伴い、議員本人だけでなく政党全体の信頼にも影響を及ぼします。
政治家は公人であるとはいえ、誤情報に基づくバッシングが続くと、発言の自由や議論の多様性にも影響が出かねません。
民主主義社会においては、「批判」と「誹謗中傷」を分けて考える冷静さが求められます。
6. 「野次」文化の転換点として
野次は一部で「議会の華」とも呼ばれてきました。
しかし、SNSと生中継が常態化した現代において、政治家の一言は瞬時に全国に拡散されます。
もはや「議場だけの出来事」ではなく、国民が共に見る公共空間の一部となっているのです。
今回の高市首相演説をめぐる議論は、「野次は議論の一部か、妨害か」という長年の論点に改めて光を当てました。
今後は、発言の自由を守りつつも、“聞く姿勢”をどう国会文化として根付かせるかが問われる時代に入っているのかもしれません。
まとめ
- 野次は法的に「権利」ではなく「不規則発言」であり、議事進行の妨げとなる場合がある。
- マイクの問題ではなく、視聴者心理としての“集中妨害効果”が印象を左右した。
- メディア報道が野次を拡大再生産し、SNSでは“犯人探し”が過熱する構図に。
- 議会の活発さと品位、その両立こそが今後の国会運営の課題といえる。
冷静に現象を捉えることが、国民一人ひとりの「政治リテラシー」を育てる第一歩です。

コメント