日航123便事故の真実|圧力隔壁修理ミスと情報の壁を追う

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1985年8月12日、乗員乗客520人の命を奪った日本航空123便墜落事故は、今も「世界最悪の単独機事故」として記憶されています。

事故原因として「圧力隔壁の不適切修理」が指摘されましたが、なぜそのミスが起きたのか、誰が関与したのか――核心部分は40年経った今も明らかになっていません。

本記事では、当時の経緯や証言、そして未解明の謎を丁寧に振り返り、後世に残すべき教訓としてお伝えします。

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目次

はじめに

日航ジャンボ機墜落事故から40年

1985年8月12日、羽田空港を離陸した日本航空123便は、群馬県・御巣鷹の尾根に墜落し、乗員乗客520人が命を落としました。

単独機としては世界最悪の航空機事故とされ、事故から40年経った今も、その悲劇は多くの人々の記憶に深く刻まれています。

毎年8月には遺族や関係者が慰霊登山を行い、事故現場で犠牲者の冥福を祈ります。

御巣鷹の尾根は、悲しみの象徴でありながらも、遺族同士や他の災害遺族との交流の場としても受け継がれてきました。

未解明の“核心”に迫る意義

事故原因として「圧力隔壁の不適切修理」が指摘されていますが、なぜその修理ミスが起きたのか、誰が関与していたのかといった核心部分は今も明らかになっていません。

当時の修理作業に携わった人物の多くはすでに亡くなり、米国側も詳細な情報提供には慎重な姿勢を崩していません。

それでもなお、非公開資料の発掘や関係者への取材によって、少しずつ事実に近づこうとする試みは続いています。

40年経った今こそ、事故を風化させず、後世に教訓を残すために真相解明に向けた検証が求められています。

1.事故発生と現場の記録

離陸12分後に起きた異変と機長の叫び

1985年8月12日午後6時過ぎ、日本航空123便は羽田空港を離陸してからわずか12分後に異常事態に見舞われました。

突然、機内に大きな破裂音のような音が響き渡り、その直後に機長が「なんか爆発したぞ」と叫んだのです。

乗員たちは状況の把握に追われ、コックピット内は緊迫した空気に包まれました。後にこの時の記録は、事故の経緯を知るうえで重要な証拠となります。

生存者が語る機内の惨状と急減圧

事故で救出された4人の生存者のうち、非番で乗っていた客室乗務員は、当時の機内の様子を鮮明に覚えていました。

「バーンという音とともに酸素マスクが落ち、機内は白く濁った霧のような状態になった。耳がツーンと痛み、乗客は混乱していた」と証言しています。

後部トイレの天井は外れ、内部の構造がむき出しになっており、乗客の恐怖は頂点に達しました。

別の生存者も、急激な減圧によって空気中の水分が一気に凝結し、「白い霧」が広がる光景を見たと話しています。

初動調査で浮上したテロ説とその否定

事故発生直後、日本側とともにアメリカの調査チームが現地入りしました。

チームには機体製造元のボーイング、米国家運輸安全委員会(NTSB)、米連邦航空局(FAA)の専門家が含まれ、当初はテロの可能性を疑って調査が進められました。

機体後部のトイレ付近から「外の光が見えた」という報告もあり、爆発物使用の疑いが強まりました。

しかし、残骸の分析や現場調査の結果、爆弾や可燃物の痕跡は発見されず、テロ説は早い段階で否定されました。調査の焦点は次第に、機体構造そのものの問題へと移っていくことになります。

2.過去の損傷と「不適切修理」

7年前のしりもち事故と圧力隔壁の損傷

日航123便は事故の7年前、大阪空港で着陸時に尾部を滑走路に強く打ち付ける「しりもち事故」を起こしていました。

この衝撃で、機体後部にある「圧力隔壁」という重要な部位が損傷します。

圧力隔壁は、客室と外部の低気圧部分を隔てるお椀型の壁で、機内の気圧を保ち、乗客の安全を守る役割を持っています。この損傷は重大で、製造元のボーイングが修理を担当することになりました。

修理指示と異なる「継ぎ板」切断の実態

修理指示書によれば、壊れた隔壁の下半分を新品と交換し、上下をつなぐために1枚の「継ぎ板」を使用する方法が示されていました。

しかし、実際にはこの継ぎ板が2枚に切断され、別々に取り付けられていたことが後に判明します。

1枚の板を使った場合に比べ、接合部の幅が狭くなり、客室側からかかる圧力に耐える力が大きく低下してしまう構造でした。

日本の調査官が撮影した未公開写真には、もともと1枚だった板が切断された痕跡とみられる引っかき傷がはっきりと残っていました。

耐久試算と墜落との危険な一致

FAA(米連邦航空局)の金属疲労専門家トム・スイフト氏は、この不適切な修理が機体の寿命にどのような影響を与えるかを独自に試算しました。

その結果、隔壁の寿命は約1万3000回の飛行で限界を迎える可能性があるとされました。

一方、123便が修理後に実際に飛行した回数は1万2184回で、計算上の限界値に極めて近い数字でした。

この一致は偶然とは言いがたく、不適切修理が事故の直接的要因であったことを強く示唆しています。

アメリカ大使館でこの事実を知ったボーイング技術者の中には、その場で涙を流した者もいたといいます。

3.修理ミスの背景と証言

アメリカ側の沈黙と情報遮断

事故原因を解明しようと、日本の事故調査委員会や警察は修理の詳細を確認するため渡米しました。

しかし、現地での対応は極めて厳しく、質問をしても「作業した人はもういない」「詳細は分からない」という返答ばかりで、肝心な情報は得られませんでした。

アメリカでは航空機事故の際、個人の責任追及よりも再発防止に重きが置かれるため、作業担当者名や具体的経緯が公にされることはほとんどありません。

この情報の壁は、真相解明を目指す日本側にとって大きな障害となりました。

元作業員の証言と食い違い

そんな中、TBS取材班は1978年の修理に関わったボーイング社の元作業員に接触することに成功しました。

彼は当時の名刺を示し、東京で圧力隔壁の修理を行ったことを認めていますが、「継ぎ板を切った記憶はない」「初めから2枚の板を使った」と主張しました。

この発言は、日本側が把握していた「1枚の継ぎ板が切断された」という調査結果とは食い違っています。

また、彼は事故後に自分の作業が原因と疑われていたことすら知らなかったと語っており、情報の共有不足が浮き彫りになりました。

誰も気づかなかった修理不備の連鎖

修理には複数の作業員が関わっており、誰が継ぎ板を切断したのかは今も不明です。

作業の一部を担当した人が異変に気づいても、それが全体に共有されなければ重大な欠陥は見逃されてしまいます。

今回のケースでは、現場での判断、指示内容の解釈、そして検査の過程のいずれかで見落としがあった可能性があります。

もし誰か一人でも異常を確認し、報告していれば、520人の命を奪う事故は防げたかもしれません。

この事実は、組織全体の安全管理体制の脆弱さを痛感させるものであり、事故から40年経った今もなお、航空安全の教訓として語り継がれています。

まとめ

日航ジャンボ機墜落事故の背景には、単なる「作業ミス」では片づけられない複雑な要因が絡み合っていました。

アメリカ側の情報非公開姿勢、現場作業員の記憶や認識の食い違い、そして欠陥を見抜けなかった組織全体の安全管理の甘さ――これらが連鎖的に重なり、最悪の結果を招いたのです。

もし当時、修理工程での不備が一人でも正しく認識され、共有されていれば、520人の命は救われていたかもしれません。

事故から40年が経ち、関係者の多くは高齢化し証言の機会も限られつつありますが、この事故の教訓は、今後も航空安全の歴史的警鐘として、確実に語り継がれていく必要があります。

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