戦後80年の節目となる2025年8月15日、長崎での被爆体験を持つ96歳の森田富美子さんが、テレビ朝日『徹子の部屋』に娘の京子さんと共に出演しました。
16歳で原爆に遭い、一瞬で家族全員を失った彼女は、その後も数々の病や事故を乗り越えながら「まだ死ねない」という強い意思で生き抜いてきました。
番組では黒柳徹子さんの“聞く力”に支えられ、戦争の記憶と平和への願いを静かに、しかし力強く語った富美子さん。その半生と出演秘話から、命の重みと語り継ぐことの大切さを探ります。
はじめに
私は長崎出身ではありませんが、戦争体験者の方々からお話を伺う機会が何度かあり、その度に命の重みと平和の尊さを強く感じてきました。今回ご紹介するのは、96歳になってもなお精力的に活動されている被爆者・森田富美子さんのお話です。
彼女の生き方や言葉には、世代を超えて心に響く力があります。この記事では、富美子さんのこれまでの歩みと、最近出演された『徹子の部屋』での出来事を通して、その魅力と使命感をお伝えしたいと思います。
戦後80年を迎える節目に語られる命の物語
2025年8月15日、終戦から80年という節目の日に、96歳となった被爆者・森田富美子さんは、テレビやSNSを通して自身の体験を語り続けています。
16歳のとき長崎で原爆に遭い、一瞬で両親と弟3人を失った彼女は、戦後も義父母の介護や家業、子育てに追われながら生き抜いてきました。
高齢となった今もなお、ジムに通い、本を執筆し、SNSで若い世代に戦争の悲惨さを発信し続けています。
その歩みは、命の尊さや人間の強さを改めて考えさせられるものであり、「まだ死ねない」という言葉の重みを私たちに投げかけます。
96歳で発信を続ける森田富美子さんの歩み
森田さんが語り部として活動を始めたのは90歳を過ぎてからでした。
肺がんや脳梗塞などの大病、交通事故や手術といった幾多の困難を乗り越え、常に「生きる」ことを選び続けてきました。
延命治療の場面でも「何があっても生かしてほしい」と強く訴えた背景には、戦争で家族を失った過去と、「二度と同じ悲劇を繰り返させない」という強い使命感があります。
今も週に3日ジムで体を動かし、SNSではフォロワーに向けて日々の思いや体験を発信。その姿は、世代を超えて多くの人々に勇気と希望を与えています。
1.原爆孤児としての少女時代と戦後の暮らし
長崎で家族を失った16歳の夏
1945年8月9日、16歳だった森田富美子さんの人生は一瞬で変わりました。長崎に投下された原爆により、両親と3人の弟を同時に失ったのです。
家は壊れ、街は焼け、日常は跡形もなく消えました。生き残ったのは妹と自分だけ。悲しむ時間さえ与えられず、焦げた匂いと灰が漂う中で、大切な人たちの遺体を火葬するという過酷な現実に直面しました。
この経験は、その後の人生観を深く形作る基盤となります。
戦後の生活と義母からの忘れられない言葉
戦後、妹と共に叔父の家に引き取られた富美子さんは、20歳でお見合い結婚します。義父母は体が弱く、家業の手伝いや介護、4人の子育てに追われる日々が始まりました。
そんな中、長男が2歳の頃、病床の義母から「原爆孤児やったけん、長男の嫁にしたと」という言葉を受けます。意味を理解した瞬間、義父の顔色が変わったのを覚えているといいます。
当時、戦争孤児という言葉には今とは比べ物にならないほどの重さと偏見があり、その一言は胸に深く刻まれ、長年封じ込められることになりました。
戦争が人間性を奪う現実を見た日々
義母の言葉だけではありません。戦地から帰った男性たちが、現地で行った残虐行為を武勇伝のように語る姿も目の当たりにしました。
「することをした女は橋の上から川に投げ捨ててやった」と笑う彼らは、普段は穏やかで優しい人たちでした。
戦争は人の心を変え、人間性を奪ってしまう――その現実を身近に感じた富美子さんは、長く沈黙を守りながらも、その記憶を忘れることはありませんでした。
そして90歳を過ぎてから、SNSで若い世代に向けて発信を始め、「自分が見たものを伝えること」が生きる理由の一つとなっていきます。
2.大病や災難を乗り越えた「生きる力」
肺がん・脳梗塞からの生還と東京への移住
73歳のとき、定期健診で肺がんが見つかり、左肺の大部分を切除する手術を受けた富美子さん。それから5年後、「今こそ自分のやりたいことを」と長崎から東京への移住を決断します。
当時は長男が反対しましたが、その意思を貫き、長女・京子さんと二人暮らしをスタート。
しかし上京の翌年、朝の化粧中にブラシが口元まで届かず、違和感を覚えて京子さんに伝えると、「それはサインだ」とすぐに病院へ。
診断は急性期脳梗塞。医師からは「こんなに早く来られるのは奇跡です」と驚かれました。もし長崎に残っていれば、発見が遅れて命を落としていた可能性もあったといいます。
長男の死と続く病気・事故
東京での生活は刺激にあふれていた一方、上京の翌年には長年持病を抱えていた長男が他界。この出来事は富美子さんに大きな喪失感を与えました。
その後、長崎に一時滞在していた時期もありましたが、再び東京で暮らすことを選びます。
すると数か月の間に、下血から判明した大腸ポリープの除去や、トラックとの接触事故といった災難が立て続けに発生。それでも大事には至らず、本人は「何かに守られているのでは」と感じ始めたといいます。
自分は守られているという思いの芽生え
2021年、コロナ禍の最中に糖尿病と診断され、即入院を勧められました。しかし面会制限による認知症リスクを心配した京子さんの反対で、自宅療養と自己管理の道を選択。
スマホでの血圧・体重管理に加え、血糖値も毎日記録し、3か月後には数値を正常に戻しました。
こうした経験を通じて、「自分はまだ生かされている」「守られている」という感覚が強まり、それが後の延命治療の選択にもつながっていくのです。
3.延命治療を懇願した理由と使命感
胆石手術での医師との対話
2023年、総胆管に石が詰まり、激しい腹痛に襲われた富美子さんは救急搬送されました。翌日に大きな病院へ転院し、手術前に医師から「延命治療は希望しますか」という質問を受けます。
医師は延命治療のつらさや負担を丁寧に説明しましたが、その語調は娘の京子さんに「諦めさせようとしているのでは」と思わせるほど強いものでした。
富美子さんは説明を静かに聞き終えると、自らの過去を語り出し、「ここで終わるわけにはいかない」と強い意思を示しました。
「何があっても生かしてほしい」という切実な願い
富美子さんは、原爆で家族全員を失い、自分の手で火葬した過去を医師に語りました。
そして「大切な人たちも、もっと苦しい思いをして亡くなった。それに比べればどんな治療も耐えられる」と話し、「何があっても生かしてほしい」と懇願します。
その言葉には、これまで幾度も死の危機を乗り越えてきた経験と、「まだやるべきことがある」という強い覚悟が込められていました。結果、医師はその意思を尊重し、最後まで治療を行うことになりました。
『徹子の部屋』で感じた“聞く力”
2025年8月15日、森田富美子さんは娘の京子さんとともに『徹子の部屋』に出演しました。
戦争体験を語るこの特別な日に、黒柳徹子さんは富美子さんの話に一切口を挟まず、最後まで敬意をもって耳を傾けてくれたといいます。数多くの取材を受けてきた富美子さん親子にとって、これは珍しい体験でした。
徹子さん自身も戦争を経験し、平和を訴える活動を続けていることもあり、言葉の一つひとつがまっすぐ届いたのでしょう。
収録後には、スタジオに飾られていた絵を間近で見たいとお願いし、徹子さんの粋な計らいで実現。富美子さんの笑顔は、まるで長年の夢が叶ったような輝きに満ちていました。
まとめ
16歳で家族を原爆で失い、その後も数々の病や事故を乗り越えてきた森田富美子さんの人生は、「生き抜く」という言葉そのものです。
義母からの忘れられない一言、戦争が人の心を変えてしまう現実、大病からの回復、そして延命治療を選んだ場面──そのすべてが、彼女の「まだ死ねない」という強い意思につながっています。
今回の『徹子の部屋』出演で感じたのは、話を聞く側の姿勢がどれほど大切かということ。
富美子さんは、これからも週に3日ジムに通い、SNSを通じて戦争の記憶を若い世代に伝え続けます。
それは過去を語るだけでなく、「同じ悲劇を繰り返させない」という未来へのメッセージでもあります。私自身、この取材を通じて、命の重みと平和の尊さを改めて胸に刻みました。
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